生きることについて知るために書く

日記

2023年07月08日

今日は少し元気だ。八時ごろ起きた。コーヒーを飲みながら少し文章を書く。そしてシャワー浴びた。スッキリした。うつ病がひどいとき、シャワーを浴びるのすら億劫だが、「スッキリ」と感じられるということは調子がいいのだろう。少し外に出て、風をあびてスッキリした。


少し掃除をする。ほうき掃除してたら楽しくなった。掃除が楽しいと感じ始めたのも好調の兆しだろう。また少し文章を書く。毎日これが続けばいいのだが。しかし、昨晩は鬱屈としていた。最近、悲憤や憂鬱な考えで頭がいっぱいになる。夜になると特にそうだ。

希望退職に追いやられた会社のことを思い出してしまうのだ。人間としての価値が低いかのように捨てられたと感じた。邪推だが、僕を忌み嫌う権威のあるからの悪意、邪悪さを感じた。あまりのも義理が欠けていると思った。僕は不要な存在だったのだろうか、うつ病だから捨てたのか。そんなことを毎晩考える。

こういうとき、感情をどう対処すればいいか考える。鬱屈とした感情は、どこにぶつけたらいいのだろうか。どうすれば清々しい気持ちに戻れるのだろうか。報復してやりたい、と考えたこともある。「お前たちは一人の従業員に酷い扱いをした。恨みは消えない」と伝わるように害悪を加えたいとすら思った。

でもそんなことで気持ちが晴れる気がしない。この感情の乱れは、個別の出来事を超えた、もっと抽象的な、生きることへの向き合い方に関する根深い課題な気がする。胸糞悪い出来事はこれからも起こる。人から馬鹿にされる、見下されることは絶対に避けられない。だから、自分の内側と向き合い、感じ方、考え方を成長させるしかない。一皮むけざるを得ない課題を与えられたのだ。そう信じるしかない。

と、昨晩考えた。ここ数日こんなことばかり考えている。考えない方がいいときもあるけど、こうやって抉るように何度も考えると、本質が見えてくる。実は少しずつ自分について理解が深められているようで楽しかったりもするのだ。

なんてことを考えながら寝転んでいると、猫が僕を踏み台にして通っていった。話は変わるが、毎日楽しく思えるのは、猫がいるからだ。猫は元気をくれる。昼間はずっと寝ていて相手してくれないけれど、その呑気で自由な姿が愛しい。最近、特に可愛いと思う姿がある。猫のトイレ掃除してると「お前ちゃんと掃除してるか」って感じで猫がちょこんと横に座ってじーっと見てるのだ。何とも可愛い。可愛い可愛い。

そんなことを考えていると、「猫を養って、猫のために楽しいおもちゃや猫用家具を買ってあげること」をモチベーションにすると、仕事を頑張れるかもしれないと思った。「可愛い猫用ベッド買ってあげたいなー」って考えてたらワクワクした。

いやしかし本当に、猫を養う(自分を養う)、映画・漫画・読書・音楽・お笑い・アートを楽しむ、食べる寝る生活する、家族にプレゼントを渡す、これらだけが仕事のモチベーションでもいいかもしれないとも思う。いや、モチベーションというより、生きる幸せというか意味というか。基礎的な、目の前のあれこれ、日常、日課。そういうものだけで、十分な幸せかもしれない。それを継続できたら、十分なのかもしれない。

みたいなことを、午後は考えた。考えながら文章にした。僕が生きづらいと感じるが、色んな考え方やコツで、少し生きづらさを緩和できるのではないかと思う。稚拙な表現かもしれないけど、「ライフハック」的な考え方、習慣を実行するとほんの少し楽になると思う。考え方、言葉、教訓、コツなどを発信できたらいいなと思う。

夕飯を食べる。おいしい。幸せだ。お笑い芸人のYouTubeを見て笑う。幸せだ。猫と遊ぶ。幸せだ。あとは寝るまでダラダラしていた。ツイッターを見ていた。

なぜみんなツイッターでわざわざ書いて発信するのだろう。何が楽しいのだろうと少し考える。稼いでる人もいるし、愚痴やメモに使っている人もいる。自分の意見を発信して共感を求める人もいれば、輝くような人生を描写して承認を得ようとしてる人もいる。喧嘩している人もいる。楽しんでいるのか、憂鬱を助長させているのか、分からないけど、みんな書いている。なぜだろう。

僕個人的には、書く活動の一つの側面は、生きることの仕組みについて知ることだ。書いて考える。書き続けると解像度が高まる。気付かなかったことに気付く。自分についての新たな発見がある。書くことで感情をもう一回体験し、より強い教訓にする。うつ病になって、何となくでも書くことを続け、ちょっとずつ色んなこと、特に自分自身やどうやって生きるかについて、理解が深まった気がする。

だから何でも書こうと思う。とりあえず書いておけば、何かの発見になるし、意味なんて求めなくても書くという行為それ自体を楽しめばいい。色んなことを考えて、そう思った。