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余白

日記
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過去にずっとモヤモヤしてることがあった。思い出すと、やはりモヤモヤする。当時は解消できなかったし、どうやって解消すればいいかも分からなかった。もしかしたら提言をして摩擦を起こせばどうにかなったのかもしれないが、僕にはどうにも出来なかっただろうという無力感もある。

余白がない。

仕事をしていて、ずっと窮屈だな思っていた。閉塞感があった。正論に縛られている気がした。たぶん、長い間ずっと窮屈だったと思うのだが、たぶん無意識に蓋をしていた。頑張って耐えていた。だから気付かなかったけど、僕の世界に対する解像度がちょっとだけ上がったのか、あるときに顕著になった、ものすごく窮屈に感じた。

今まで「余白」に関連するようなことをいろんな形で言葉にはしてきたけど、それは環境の窮屈さに対するアンチテーゼじゃなかった。僕自身のものの見方に対する反発だった。「僕のものの見方」というのは簡単に言うと、論理偏重である。論理的に考えることは慣れて気がする。分解したり構造したり目的と照らし合わせたり、そういうのは少しできるような気がしている。スピードとか精度に向上の余地はあると思うけど、基本的に論理的に考えているつもりだ。

ただ、ここに弊害がある、と思っている。飛躍しないのだ。人間味がないのだ。文化がないのだ。延長線上で上積みできる。でも、変化球が投げられない。ユーモアもエンターテイメントもない。熱がこもらず人がついてこない。横串を刺して編集できない。僕は個人的にそういう課題を持っていた。改善したくて、本を読んだり言葉にしたりした。

非論理偏重を(正確ではないけど理解しやすいように)いろんな概念に言い換えてみると、ポップさ、不真面目さ、エモーション、のびしろ、コピーライティング、遊び、空白、キャッチー、わかりにくさの受容、文化、企画力、軽率さ、ユーモア、編集力、熱量、エンターテイメント、禅、ストーリー、人間味、悪巧み、カオス、化学反応、飛躍、心を動かす、そして、余白。

僕はこれらの概念に意識をシフトしたかった。軽率に飛び跳ねないといけないと思っていた。じゃないと、ずっと変化できないと思っていた。個人的な課題だった。そしてどこかのタイミングで、個人的な課題以上に、職場の環境や言論の構造に窮屈さを感じ始めた。息苦しかった。無色透明の正論にカラフルなアイディアが押しつぶされるところを何度も目撃した。人のクリエイティブな素質への信頼は皆無だった。退屈さ。そういうものを常々感じていた。

ガイドラインが明文化されて敷かれているならまだいいと思った。「僕らは個人のアイディアの可能性や伸び代やヒューマンファクターは一切排除し、ロジカルさと正しさとわかりやすさを常に求めて、それらを『文化』として意思決定を行い駆動する。どれだけ人の想いが篭っていても、ロジカルでない・正しくない・わかりやすくないものは常に批判して採用せず、どのような形式でアイディアの拒絶がされようとも受け入れられるべきである」というルールがあるなら、それこそわかりやすい。それもある種の「文化」だと思う。そういうガイドラインがあってその「文化」が嫌なら、離れればいい。僕が離れればいい。

ただ、無言の圧力、締め付けがあった。気付いたら会社がアイディアを尊重しなくなった。余白のある行動が抹消された。律された、そう、少しばかりの余白があってもいいと思うのだ。余白を許容する集団であってほしいと思った。僕らは人間である。感情がある。アウトプットに想いも詰めている。「それよりこっちが正しい」「目的と対策がロジカルでないからやめたほうがいい」「そのアイディアは間違っている」と正論で拒絶されると、アイデンティティを否定されてる気にもなる。

例えば、ちょっとだけコーティングしてくれればいい。もちろんリスクがいろいろあるから、頭ごなしに「それいいね」「よし、実現しよう」とはならない。数ある中の選択肢から集中しないといけない。だから、率直なフィードバックは大事だと思う。そうやって止揚が起きるのだと思う。でも、言い方にも余白があってもいい気がする。「それもいいけど、こっちはどうかな」「こうするともっと良くなるんじゃないかな」くらいの余白でいい。キチキチの批判をしてしまうとアイデンティティを否定されているような感情になってしまう。人間そういうものである。

いろいろ問題が起きる。そして、複雑である。変化も速い。そのときに正しさばかり求めても、競争に勝てないんじゃないかなって思う。人は心が動かされないし、突いていきたいと思わなくなる。だから、余白を設けてもいいと思う。余白を信じてもいいと思う。余白が飛躍や新結合を生み出すと思う。その余白が文化を作って、人間味が生まれると思う。

そんなこと書きながら、僕は最適を見極めようと試みてるし、僕が論理偏重になってしまっているのかもしれない。僕が真面目に正しさを求めすぎているのかもしれない。正論ばっかり押し付けているのかもしれない。人は鏡だし。だから、僕自身が余白を作らないといけない。能力を高めたり時間を作ったりして、僕が余白を生み出せるようにならないといけない。余白がある考え方、動き方をしないといけない。余白を求めて移動・変化しないといけない。不真面目に、軽率に、ポップに、考えて身体動かさないといけない。

余白を作ろう、少し遊べる余白を。少しわかりにくさや混沌をを受容する余白を。少し人のアイディアを信じる余白を。少しふざける余白を。