人との交わり

日記

「毎日日記を書かないと」と意気込むも、さっそくサボる。2023年6月17日。と言っても、今書いているのが19日で、二日前のことなんて忘れてしまった。 『テラスハウス BOYS & GIRLS IN THE CITY』を見終わった気がする。全46エピソードを約三日で観てしまった。休み中とは言え、就職についてもう少し考え、少しは焦った方がいいのかもしれない、と振り返って思う。

単なる娯楽として見始めたのだが、人について学ぶことが沢山あった。人と人が分かり合えるなんて難しいし、難しいという前提を理解しないと、自分勝手になってしまう。「分かり合えるなんて無理だ」くらいで寄り添うのがちょうどいいのだろう、なんて考える。

人間関係において、特に恋愛において、「こうすべき」「こうあるべき」みたいな不文律が沢山ある。そこから逸れると、不器用、失礼と評価される。でも、スマートさの外側でも、想いが強ければ相手は共感してくれる。想いがどこに向かっているか。自己保身、自己満足に想いが向かっていると、相手は困惑、苛立ちを覚える。まずは人と人との関係に信頼を置けるか、それが大切な気がした。

ただ、相手を優先すべき、と言っている訳ではない。自己保身、自己満足を目指して、摩擦が置きてしまっても、仕方がない、とそれを受け入れることも戦略だと思う。客観的に「それはありえない」「もっと相手のことを考えないと」と評価されてしまうとして、自分らしさを犠牲にしてはいけない気がする。社会と接する上で、このバランスが難しい。

うつ病になった僕は、人生におけるフェーズが関わる気がする。うつ病が酷いときは、自愛の精神を最大に意識していた。飲み会を断って評価が下がろうとも、自分の精神が安らぐ選択をし続けた。そしてそれが正しい選択だと思う。一方で、自分らしさと社会通念がぶつかるとき、少しばかり自分の方針を捻じ曲げてもいい文脈もある気がする。全てはタイミング、バランスなのだろうなと思った。

夜は『ケイコ 目を澄ませて』という映画を観た。ずっと気になっていた映画で、観て本当に良かった。心がジンとする、勇気をくれる映画だった。

人間ドラマ。耳が聞こえないボクサー。ホテルで働きながら生計を立てる。彼女は町の小さなボクシングジムで毎日ハードな鍛錬をこなす。朝は河川敷で走り、夜はジムでトレーニング。プロで試合もこなし始めるが、町の再開発、ジムの会長の病気で…というあらすじ。

音。日常が雑音、コミュニケーションの音で満たされている。耳が聞こえる僕はそれらを選択的に聴いて、選択的に無視している。それが自然。でもろう者は雑音も聞こえない。相手の言葉も聞こえない。聞こえず、言葉では表現できない情動に圧倒的な孤独、閉塞感を感じることがあるのだろう、と想像する。

うつ病の僕は、人々との交わり、摩擦が起きるのが嫌だ。全ての人との関わりに背を向けたくなることもある。同時に、人との繋がりでしか得られない、人との縁の温かみ、安心感、信頼、知恵、活力があるのも知っている。

あなたがどのような苦難や障害を抱えていようが、時間は平等に進み、生活は坦々と起こる。何が幸せで何が不幸かなんて、単純に測れない。比較なんてできない。鬱屈として、窮屈な世界でも、心に小さな炎を見つけ、目を澄まして、耳を澄まして、坦々と「生きる」ことをしていかないといけない。そう、考えさせられた。

2023年6月17日分はこれで終わり。