映画『ソフト/クワイエット』を観て

映画

2023/05/21

映画を観るために新宿に向かった。「新宿武蔵野館」で映画を観るのは久しぶりかもしれない。映画館では何時であろうがお酒を買う決まりにしており、ビールとハイボールはあまり好きではないので、フルーツァーというチューハイらしきものにした。

『ソフト/クワイエット』という映画を観た。ネタバレになるのでどのサイトにも載っているようなあらすじに軽く触れるが、ある一人の教師が白人至上主義のグループ活動の第一回目会議を開き、有色人種や移民、多文化主義への反感、思想などをメンバーそれぞれが話す。そこから事が転じて…というストーリーである。ストーリーの具体的な展開には触れないつもりだが、もしあらすじ以上に少しでも内容に触れられたくなければ以下は読み飛ばしてほしい。

レビューでは「評判通りの胸糞映画…」とたくさん書かれていたが、正直もっと胸糞を期待してしまっている自分がいた。終始気分が悪く、人間に嫌悪感を抱いたのは、事実だ。ハーケンクロイツの書かれたパイが登場したり、有色人種ヘイトまみれの思想・発言が交差したり、内蔵にくるしんどさだった。

ただ「今までの中でもっとも問題作」というレビューがいくつかあったものの、うーん、救いが皆無ではなかった。相当に胸糞が悪い映画である前提だが、「(作品として)まじで救いのない、圧倒的な不条理、来いや」と思ってしまった自分がいる。海外、特にアメリカのレビューも読んでみたい。

脚本家や監督が何をしたかったのかが気になる。人々や特に白人に「あなたたちはこんな人間じゃないですよね」と問いかけたかったのか、「意外と日常に潜んでませんか、こんな言論」と提起したかったのか、「集団心理ってこんな風に互いを影響し恐ろしい方向に転がっていくんですよ」と伝えたかったのか、別に何かの問題提起をしたい訳ではなく現実に顕微鏡を当てたかったのか。

ずっと寄りのワンカットで、不気味な音響も相まって、心情、歪さ、臨場感が伝わった。僕は映画に関して「引っ張り出された日常のある部分を人の心を動かすように装飾され物語として組み立てられたものを、顕微鏡で見ている」というイメージを持っているのだが、この作品も同じだと思う。

僕らのとは全く関係のない異国の土地での壮大なフィクション、というよりは、「ほらどない、意外と日常に潜んでるんよ」と伝えている気がする。この映画で扱われたのは人種、肌の色だが、ある属性に関する危険な思想、偏見に囚われて、善悪、真偽、美醜が麻痺している可能性は誰しもある。だってもし麻痺していたら、構造、システムに囚われて、諸個人の意識や真理を超えた実体に囚われて、麻痺していることすら気付かないんだから。

客観的に物事を見るのは難しい。憎悪や憤怒が一度絡むと、個人的な不幸が絡むと、偏見を抱いてしまう。特に文化の共有度合いが強くて「空気を読む」という行為を日常的に求められていたら、スタンダードからの逸脱は異分子と捉えられ、偏見になるだろう。そのスタンダードが人間の倫理性、尊厳に反するものかどうかに関わらず。

肌の色が違ったり母語が違ったり居住地・出身地が違ったりすると、やはりどうしても「内側」「外側」と壁を作ってしまわないだろうか。もし外国人による悪態を目撃したら、「外国人が…」と形容してしまわないだろうか。短絡的に属性と悪や自分の不幸を思想上で紐づけてしまう。言葉や肌の色による仲間意識と異質性の認識から壁が大きくなり、偏見が生まれやすくなる。そしてそれに複数の人が絡んだとき、偏見や差別が大きくなり止められなくなる。

まとまりなくダラダラと書いてしまったが、人種や肌の色、単一民族主義・多文化主義、集団心理、偏見・差別に考えさせられたや映画だった。予告を見たときの「ゲット・アウト的な気持ち悪さ」への期待や、エンディングの「え、終わり?」の感じから5点中3点くらいかなと思ったけど、こうやって振り返ると、3.5くらいはあるかもしれない。