やさしい世界でありますように

日記

昨日は少しアクティブだった。僕にしては珍しい。家にずっといて半分くらい寝ているような日々を過ごしていた。それが悪い訳じゃないが、頭を使う、身体を使うと、身体と頭から息苦しさみたいなものが消えて、気持ちいい。

午前中は、歯医者に行った。麻酔を施されたのだが、まず何かしらを塗られた。歯医者で麻酔というと、今まで経験したのは注射だったから、少し虚をつかれた。でもその後で裏側の歯茎に注射をされたような気もする。

今まで痛かったランキングを考えてみたい。3位はタトゥー。小さい文字のようなものしか彫っていないから、そこまでだった。ただ彫ったあとに濡れティッシュで拭かれるのは効いた。2位は医療脱毛。毛の神経が集中しているところ(脇や陰部)、肌が少し荒れているところはきつかった。1位はピアス。ニードルと呼ばれる数mm幅の針で軟骨を貫通させたのたが、ビビった。耳たぶは何ともなかったが、軟骨はマジでビビった。こうやって考えると、今まで大した怪我、治療をしていないのだ。あとは捻挫、数針指を縫うくらい。健康体じゃないか、僕。

歯医者は僕が追い出された会社の近くにあるので、会社の人と「会いたくねぇな」とソワソワしながら(同時にそんなの関係ねぇはどんと来いと思いながら)地域を歩いた。

神宮の外苑にあるイチョウ並木まで写真を撮り行った。イチョウはあまり撮らず、鉄柱や水たまりを撮っていたのだが、水を使うと写真が面白くなることに気付く。反射だ。水たまりに木々が反射してなんだかオシャレ。家でも水を使って物を歪ませたり光を通したりすると、いい感じになりそうだ。小さい写真撮影スポットを部屋に用意しないと。

スターバックスでお昼を食べるという優雅でシャレオツな行動を取ってしまったのだが、列に並んでいるときに二つ気になった。一つはレジで「タンブラーを洗ってほしい」と主張している。僕は綺麗なタンブラーをレジに渡してドリンクを入れてもらうのがスタンダードだと思っていたのだが、その人は軽い洗浄を期待していたらしい。「洗う場所もないの?」と言っていた。そんなもんないだろ、普通。理解の範疇を超えた要求とクレーム、立場を利用した理不尽の押し付け、接客はこんなことに耐えないといけないのか。飲食店やコンビニの店員さんはすごい。

もう一つは僕の後ろで話していたスーツ姿のビジネスパーソン。「投資案件を何件か経験して、社内調整のスキルも上げたいですね。今の職場で吸収できることを全て吸収して…」なんて話していた。眩しい。気概、意識への敬意を感じるとともに、「僕はそういう世界では適合できなかった人間だ」としみじみ思う。

僕だって少し前までキャリアパスがどうのとか、ナレッジとスキルがどうのと話していた。ただ会社を実質クビになって諦めた。いや、諦めたというか、「合わんなこれ」と思った。麻痺していて気付かなかったが、自分と向き合うと、僕はおそらく(おこがましい実績というより体質の話だが)職人気質、アーティスト気質な気がした。社内政治、人間関係という類のものに自分が身を打つのが難しい。うつ病になったし、合わんのだなと。

そんなことを考えてお昼を食べてコーヒーを飲みながら『共感SNS』というゆうこすさんの書籍を読んで、スターバックスを出た。少し雨が降っていて気温も低く、半袖Tシャツだと寒かった。TOP MUSEUMに向かった。一般的に略称で呼ばれてるかは知らんが、「東京都写真美術館」である。写真美術館には前から行きたかったので、気分が高揚していた。

写真、または写真を撮るという行為にはいつくかの意味があると知った。何か外部のものを捉える場合もあるし、ただ意味もなく撮る行為自体が意味となる場合もある。写真を撮り取捨選択することで自分の内面を探る行為でもある。自分自身の描写である場合もある。あるテーマ、目的に沿って写真を撮る行為を続けると、それだけで作品、自己表現になりうると学んだ。

セレンディピティをテーマにした展覧会を開いていた。偶然、直感が招いた新しい発見。招かれるような、予期しない出来事との出会いと気付き。毎日同じことの繰り返しのようでも、少し視点を変えると色んなものが見える。見えなかったものも、時間を経てあとからささやかの喜びになる。「何でもっと早く面白さに気付かなかったんだろう」と新しい趣味に出会う、数年前に読んだ本に当時のメモが挟まっていた、二回目に映画を観て一回目には感じなかった喜びがあった。日常は意外とそういったもので溢れている。

それは作為的にどうかしようとしたって出会えない。全ては偶然のタイミングなのである。そして偶然ということ自体に意味がある。偶然でなかったらそれは発見となっていないかもしれない。そう、あまり意味を考え過ぎず、損得勘定をせず、流れに身を任せると、色んな素敵な出会いがあるのかもしれない。

写真美術館を出た後は映画を観た。『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』という映画。やさしさは無関心。やさしく弱くいることは間違いじゃない。でも社会はやさしくない。やさしい場所に居続けると、社会では生きていけないかもしれない。色んな構造があなたをはめ込もうとする。偏見、正しさ、常識があなたの殴る。

笑って流せばいい。でも気持ち悪い。抜け出したくなる。どっちが正解という訳でもない。やさしくあることも正しいし、やさしさから抜け出そうとすることも正しい。ただ、やさしくない世界で、やさしくない言葉に囲まれると、心を病む人がいるのも事実な訳で。その人たちを「あなたは社会に適合できません」と排除しようとする構造があるのも事実な訳で。周りに合わせてちゃんとしないといけないという正論も理解できるけど、やさしい世界であってほしい。そういう、背反した感情を抱いた。もっと感じたことをしっかり別のブログで書こうと思う。

昨日は色々できて楽しかった。今日もそんな日になると嬉しい。

2023/05/23