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続ける

日記
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うつ病にとって睡眠は良薬なのだ。最近、睡眠の質が悪いような感覚がある。寝る前にスマホを触ってしまうから。うつとの付き合い方を考え直したほうがいいかも。睡眠、運動、食事など。徐々に体調は良くなっている気がするが、もう一度、真摯にうつ病と向き合いたい。完治できるとは思っていない。一生付き合っていかないといけない、僕の一部だから。

『スーパーバッド 童貞ウォーズ』という映画を観た。原題は『Superbad』だが、邦題は副題のようなものが付けられている。よく見る現象で、少し気になる。日本の映画のポスターは文字が多い気がするが、そこまで説明が必要なのだろうか。もう少し余白を設けてほしい。説明しすぎないでほしい。観衆の知性を頼ってほしい。そう思った。

『スーパーバッド 童貞ウォーズ』は、いい意味で下らないコメディだった。しかもお笑いだけでなく、友情、思春期の青春、恋愛の要素も含まれていた。でも下ネタの対話劇が下品で馬鹿でたくましい。オタクで童貞で、凄まじくセックスがしたい親友たち。高校生の下ネタに振り切った会話や発想は爽快だ。映画館で観ると、観客と一緒に笑えてもっと楽しかったのかも。もう一回観よう。

もう一回観たい理由は、可笑しいのもそうだが、セリフと字幕翻訳を比べたい。僕は企業内通訳、翻訳経験があり、英語がそれなりに理解できるのだが、やはり翻訳で失われる笑いのポイントが幾つかあった。それは字幕の技術云々ではなく、言葉の壁、文化の壁でどうしようもない。駄洒落、絶妙な発話・発音で、クスッとしてしまうところがあった。「今年はどのエロ動画サイトに登録するか」の会話、その会話の存在や比較ポイント自体が馬鹿げていて面白いのだが、サイトの名前や下ネタ表現が日本語で表現できていない(できない)部分があった記憶がある。こういう比較も楽しい。

お昼を食べて映画を観て、気力がなくなる。昼食はサラダやフルーツなど、軽いものにしているが、食後はなぜかやる気がでない。寝転んでボーッとする。ボーっとしていると「さぁ、作業するか」という気持ちになり、起き上がる。

文章を書こうと思ったが、絵を描いてみた。僕の野望だが、イラストレーターもしてみたい。もちろん大人になってからは数枚しか絵を描いていない程度で、下手だ。でも、子どものころは、よくおばあちゃんが用意してくれたチラシなどの裏に、漫画の絵を真似して描いて、遊んでいた。やりたいこと、好きなことを探る一つの手法として、子どものころのワクワクを思い出す、というのがある。僕にとって、絵はその一つなのかもしれない。

下手な絵を二つ描いて、インスタグラムに投稿する。そして晩ごはんを食べ、あるニュースを見た。記者会見の様子だが、記者が質問する際は、記者も壇上にあがり、会見者と記者が一対一で質疑をする形式と取っていた。一対不特定多数という形式、匿名性が高いと、人と人との対話であることを忘れ、不躾、失礼な言葉を投げかけてしまう。でも、自分の言葉が、会見者と同じように、顔とともに世の中に発信される責任があると、記者の人は少し腰が引けているようだった。SNSに慣れると、そこに人がいる、そこにいるのは生身の人間だ、ということを忘れてしまう。顔のない言葉は怖い。

文章と絵と写真、これからずっと続けていきたい。数年、数十年と続けたい。僕は昔から「続ける」ということが苦手だった。部活でバスケットボールを六年したけど、ほぼ社会的な義務、惰性だった。その証拠に部活に参加しなくなってから、バスケットボールをしなくなった。ピアノやダンスや絵やジョギングなども、思い付きで始め、今までは全く継続できなかった。

これから「続ける」ということに必死にしがみつく。文章を書く、絵を描く、写真を撮る、ということを日常に組み込み、これから何年、何十年も続けたいと思う。

続けることのハードルは、大きな塊で真面目にこなそうとする、良いものにしようとすること。文章を書くとき、数千字書こうと意気込むと、少し気力が少ないときに全てを投げ出したくなる。気力が必要なほど大きな塊で捉えているから、「やろう」と考えること自体がブレーキになり、行動が億劫になる。そして良いものを書こうとハードルを上げてしまい、書く、発信する、を止めてしまう。

大事なのは、小さな塊で、軽率にこなすこと。気力がないなら数行だっていい。寝転んで書いたっていい。「ラーメンが食べたい。明日はラーメンにしよう」くらいでいい。真面目に向き合おうとすると、遊ぶが介入する余白がなくなり、頭が固くなる。いい加減に向き合うこと。力を抜くこと。そうすれば続けられる。