PR

いつかの日記

日記
記事内には広告が含まれています。

まあまあいい感じにアルコールを摂取した。基本的に酎ハイしか飲まないのだが(中盤から「かわいいの飲むね、とよく言われる)、5杯以上呑んだ。僕が酔っ払って記憶を失うときは、焼酎を呑んだときである。別に焼酎のテイストを楽しめる訳じゃないが、焼酎を呑むときは既にある程度酔っ払っていて、そしてそこから歯止めが効かなくなり、水みたいに焼酎を呑む(らしい)。

あ、思い出した。もうちょっと先にプレゼンテーションが待っている。そしてそれは、会社全体に向けてのピッチみたいなものである。そうなると、いつも同じ部署の人に話している感じとは前提知識が大きく違う。部署も役職も国籍もバラバラなのだ。色々削ぎ落としてキャッチーに印象を残さないといけない。

そうなると、正論は刺さらない。ロジカルに「要旨はこれで、こういう背景で、具体的にはこういうことで、結論はこうです」みたいなストレートなPREP法的なのは通用しない気がする。僕自身が注意散漫で、カンファレンス的な状況だと全く話が入ってこないタイプなので、身に染みて分かる。刺さらない。たぶん、病気的な理由もあると思うから、責任は僕にあるとは思う。でも、右耳から入って左耳から抜けていくのだ。むしろ、どちらの耳にも入らない。そういうものである。

もし耳に入ってきたとする。もしどういう因果か、話が耳に入ってきた場合、その場合は頭では理解できるのだ。

苦手な領域とか、色んな知らない横文字とか数字とかを連続的にぶつけられた場合、それは理解できない。論理が飛躍してると、理解できない。何か欠けている前提があるんじゃないかって疑ってしまう。

でも厄介なのは、理解できてしまう場合である。理解できる、とは少なくとも相手が言っていることを頭の中で、言葉の意味として理解できている。理解できていると思っている。もし本質を理解できていないとしても、ある程度認識は一致しているはずである。自分は理解していると思っているなら、そこに少量の理解はあるはずだ。

問題は、理解している、と、腑に落ちている、とは全く違うことだ。前者は頭が動く。後者は、心が動く。そして、「腑に落ちる」と意識も動いて身体も動く。腑に落ちると、行動に繋がる。腑に落ちないと、「へぇー」で終わる。先がない。発信者側の自己満足で終わる。そして、もし発信に基づいて行動を強いられる場合(何が業務の運用が開始するとか)、もうそれは苦痛なのである。ワクワクしない。興味や意気込みがない。心が伴わない。

と、いうことを最近よく思う。僕も話す機会があると結構ロジカルに話してしまう。落ち着いて話してしまう。一方的に話してしまう。よくないねぇ。プレゼンテーションの形式を取った一方的な発信って、その形式をとった時点で聴衆は構えてしまうのだ。気を張る。

意外と対話の方が理解以上の何かを深めやすいんだよねって思う。対話の仕方にもよるとは思うけど、2人で、どう思います?、僕はこう考えてるんですよね、ここが分かんないんですね、とかって話すほうが、心が通じ合う気がする。共感が生まれる。「難しいすよね、大変すよね」みたいな想いが通じ合う。対話の方が疑問をより率直に投げつけることができる。そういうジリジリと隙間を埋め合わせられるコミュニケーションが理解を超えた共感に繋がるんだろうなぁと思う。

まずは僕の今までのコミュニケーションの仕方に反省である。形式的に、一方通行的に話すのではなく、相手の理解度・共感度を泥臭く縁取ろうとトライして、空いた隙間を埋めるような、ジリジリとした、できれば双方向の、エモーションを乗せたコミュニケーションが必要だなと、本当によく思う。難しいことだけど、それが話し手の責務じゃないかなと。

という訳で、プレゼンテーションという機会をもらったので、なるべくギミックを組み込んでキャッチーにして、無駄な情報を削ぎ落として、ロジック的な筋書きではなく、エモーショナルな、心に届いて一番印象に残るような、そんな話をしてこようかなと思う。

まあプレゼンテーションなんてそうそうしないので、技術も自信も全く無い訳で、シャイさも満点なのでろくに前も見れない可能性もあるけど、まあ頑張ってみる。

という訳で今週末は、プレゼンテーションの書籍を読んでみようかな。なんの話だっけ。そう、プレゼンテーション。久々のプレゼンテーション。気合を入れて、他のプレゼンターよりも印象に残るように、悪ふざけしようと思う。では、支度をして、猫カフェに行ってくる。さようなら。