睡眠の質が悪かったからか、変な夢を見た記憶が残ってる。実家が四階建てで色んな人が訪問してきて勝手に色んな階で遊んだり寛いだりしてた。四階には、ジャグジーらしきものがあった。何かしらの脅威(怪物とか権威集団とかそういう類)が近付いてるから「早く家を出て!」みたいなことをみんなに警告してた。それしか覚えていないけど、気持ち悪かった。夕方に回転性目眩が訪れた。
日記を書いた。昨日も同じようなことを書いた気がするが、日記は毎日書かないと。昨日、一昨日のことなんて覚えてない。特にちょっとした心の動きは忘れてる。「納豆はやっぱり美味しいな」とか「店員さん、客のシルバーリング褒めてたな」とか。「ワーオ!」となる出来事よりも、心がちょびっとばかり動く事象の方が、集めておくと良いことがあるものだ。メモを取るなり日記を書くなり、心象の追体験ができて、感性が強化される気がする。
過去の文章を読んで、二年半交際した彼女、色んな出来事を思い返す。当時は今以上に自己理解が欠如していて交友は試みるけど社交性に欠けてたから一番タチが悪かったのに、よく僕と一緒に居てくれたなと思う。彼女の知人とてつもなく無愛想に話したり、ちょっと口論になったり、振り返っても僕を正当化できる正義はなく、単純に「人といるのが苦手なのに誘われたからその場に行ったけど、その場にいること自体に、よく分からないけど、ムカムカしていた」から、利己的に行動した。数年経って、今は自分のことがよく理解できているかも。人といると、それがどんな人でどんな場であっても、ストレスになると理解しているから、積極的に断って社交的な場を避けるようにもしているし。僕にとっては成長だ。
SNSを積極的に見ていると、自分の興味の範囲の外側の物事を観察することになるが、続けていると気付いたら少し関心を持っていたり意見を言いたくなったり、気になることの幅、視野が広がる。不倫騒動、子育て、書籍編集、男社会の暴力性、優先座席利用の捉え方とか。いや、「視野」「興味の幅」なんて高尚なものでもないんだけど。「なんか引っかかるんだよな」「何言ってんだよ」「おー、面白い」とか、摩擦が増える感じ。増えたところでどうなるんだって話だけど、言語化能力の鍛錬になるのかもね。
ドラッグストアでパルムを購入し、帰路でグレー色の空が少し視界に入り、考える。何にでも「楽しみ方法」というのがあるのかもしれない。世界との距離感、世界の見方次第な気がするのだ。ウディ・アレンの映画で「この世は実在せず、全ては犬の見てる夢だ」というセリフがあると知った。世界をフィクションのように、メタで捉えると何となくほんの少し心が弾む。「自分の人生だ!」と意気込みすぎて、自分(そして心)をのめり込ませ過ぎると、感情の振れ幅が大きくなる。特にしんどいとき、イライラするとき、疲れる。ゲームの主人公となって、第三者の視点でカメラが僕の人生を撮影している、くらいで考えると、遊びが生まれる。世界と少し離れる、って大事。
色んなアートを見たいと思い始めた。仏像とか陶器とか。
NewJeansの『Hype Boy』を聴いたら、なぜか懐かしい気持ちになる。明日は映画館。最後は雑になってしまった。おやすみ。