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2024年01月28日(日):「好き」を譲らないで

日記
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今日はいつもと違う目覚め方だった。部屋が揺れていた。寝ぼけながら起きて、段々と地震だと理解し始めた。大きな揺れではなく、少し様子を見ていると、すぐに落ち着いた。また揺れないか少し怖くなった。愛猫の様子を見に行こうとしたとき、全く気にしていない様子で、ニャーと愛猫の方から向かってきた。

今日は沢山寝ようと思っていたので、猫に餌をやり、二度寝した。最近、張り切りすぎていたかもしれない。時間的にはあまり活動していないが、外出したり、人との接触があったり、少し疲れや暗い感情が溜まっていたのかもしれない。全身が少しだけ重くて、筋肉の調子がおかしい気がした。痺れているとか痛いとかではないけど、汚れが詰まっているような、そんな感覚だった。

お昼前に起きて、机に向かい、写真を編集していた。なぜか、過去の嫌な出来事を思い出してしまった。嫌な感情、嫌な記憶は連鎖する。伝染する。芋づる式に、他の嫌な記憶が意識から引っ張り出された。椅子に座ったときはしんどくなかったけど、思い出したことでエネルギーが消耗されていくのが分かる。手の力具合がおかしくなり、震え出すか震え出さないかの境界線を行ったり来たりする。

音楽を聴いて、泣いていた。「ダメだ」「もう嫌だ」と思うけど、心の奥底では「私は大丈夫だ」「絶対に何とかなる」と信じたかった。信じたいと、自分でも分かっているはずだ。小さいことをイチイチ気にして、人と接するのが怖くなって、上手く活動できないときもあって、諦めたくなる。でも、明らめたくないと、自分でも分かっている。「何とかなる」「私なら乗り越えられる」と信じたい。信じるしかないと、私も気付いている。このまま死んでしまうと、悔しくて死にきれない。挫けない私、諦めず藻掻いている私は美しい。

お昼ご飯を食べる。お茶漬け、梅干し、味噌汁にした。これまでの休みの間ずっと「あまり考えずに好きなものを食べる」という方針を取っていたが、今少しずつ睡眠のリズムなども整ってきて、食事も変えられそうかなと思う。イライラしたり、急に不安になったりするのを少しでも和らげたくて、食事を少しずつ変えていこうと思う。食事と運動。

忘れがちで、仕事しているときはおざなりにしてきたけど、私たちは生物で、生命活動を維持するために大切な活動を大切にしないと、身体も心も乱れる。水を飲んで、ご飯を食べて、日光を浴びて、身体を動かして、表現して、しっかり寝ることを最優先にしないと、辛くなるなと思う。これまでは新しい習慣を足そうとしても、続かず、続かないことで落ち込むだろうと分かっていたから「足す」は避けてきたけど、徐々に生活習慣を、できる所から、変えていこうと思う。

ご飯を食べた後、何をしていたか覚えていない。でも、音楽を聴いていた気がする。「好き」を貫きたいなと思った。「尖る」という感じではなく、しなやかに、流れるように、跳ねるように、自分の好きなこと、やりたいことをしっかりに握り締めて生きていたい。「何がしたいんだっけ」「何が好きなんだっけ」が3年くらいよく分からなかったから、今は蓋をせず、「好き」に騒いで貰おうと思う。

猫と遊び、15時くらいに寝ることにした。休み時間を、もっと増やそうと思う。集中して活動できている訳ではないけど、常に「何かしないと」「前に進まないと」と頭の中がうるさくて、「ボーッとする」「ダラダラする」「沢山休む」ができていなかった。休むことが近道なんだろうなと改めて思うから、やりたいことはあるけど、まずは休む量を増やそうと思う。

夜に起きた。身体が軽くなったような気がした。ちょっとだけ、考えたことを書き溜めた。最近、「読まれること」や形式に囚われて、書くこと自体を楽しめていないような感覚があったから、あまり文字数や誰に読まれるかは考えずに、自由に書き出す時間を設けようと思った。自由なフォーマットで、あまり推敲せず、吐き出すことに集中する時間を作ってみた。やっぱり、楽しかった。

最近、書くことやSNSが楽しめていない感覚があった。何か言われないかドキドキして、反応を気にしてしまったり、どう接すればいいかよく分からなくなったり、人と接することへの漠然とした恐怖のようなものがある。そういうときは、大体疲れていて、過敏になっているのだけど、一度溺れてしまうと「もう全てのSNSを消して、繋がりを断ちたい」と考えてしまう。

休みながら、「不安、恐怖、憂鬱を抱かない距離感」を保ちながら、しんどくなったら全く開かず、SNSを開く頻度も下げようと思う。見られること、読まれること、反応されることより、書くこと、表現することに集中しないと、当初の目的であった「書くことを楽しむ」「書くセラピー、リハビリをする」から離れてしまう。「人と接すること自体への苦手意識、恐怖心」を抱くと、その度に「これからやっていけるのか」と不安になるが、ゆっくり、何事にも程よい距離で、接していこうと思う。

晩ご飯の準備をしていると、愛猫が何か訴えかけてきた。猫のご飯の時間はもう少し後なので、もうちょっと待ってもらわないと。「まだだよー」と声をかけて、自分のご飯を用意した。ご飯が楽しいと感じられるのは、とても嬉しい。今からでも嬉しさ、楽しさを感じられることは沢山あるな、そう感じた。「今週もあまり動けなかったな」と思ったけど、しっかり振り返ってみると、面接もしたし、noteも書いたし、頑張りすぎなくらいかもしれない。

また、音楽を聴きながら、思ったことをダラダラと書いていた。暗いトンネルは果てしないように思えるけど、いつか懐かしめるように、笑えるようになるんだろうなと思った。「まだ分からないけれど、今経験していることに大きな意味があるのだろう」と宇宙を広く見て信じることが大切なのだろうなと思った。

人と接すること、人の反応が見えることに恐怖を感じたり一喜一憂したりするし、些細な人の言動や過去の嫌な出来事を思い出して、気にしたくなくても注意力が全て奪われ、目の前が見えなくなり、何も手に付かなくなって、頭の中が嫌なエネルギーで一杯になり、グルグルしてドキドキして、頭や肩がズシンと重くなり、手が震えそうになる。

でも、「今経験していることも、辛くて長そうな道のりも、苦しくてしんどくて挫けそうになるけど、何か大切な意味があるのだろう」と信じて祈って、藻掻きながら、道を進もうと思った。信じるしかない、祈るしかない、藻掻くしかない、そう思った。今週も、あなたにとっての美しい日々が続いて、「あなたの好き」「あなたの感性」をぜひ大切にできますように。

おしまい。