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2024年09月16日(月):生き方には、それぞれのペースがある

日記
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こんにちは。久しぶりの日記だ。「日記を書いて発信しよう」って頭の隅で考えるとき、どうしても要求が高くなってしまう。「日記を書くときは、感情は伏せて、行動や外的出来事に着目し、行動の仔細に描写すべきだ」という日記のコツを聞いたことがある。

「そうしなきゃいけないのか…」と考えてしまい、でも実際に僕が日記を書くときは、頭の中で起きたことをよく書いてしまう。「じゃあ日記として成り立っていないのかな」とか、「書いても自分語りばかりで、発信しても面白くないだろうな」とか考えてしまい、結果「書かない」となっていた。

でも本当は、自由でいいよね。会社に求められて要件があって書いている訳でもないし、書いた日記で稼ぎを得ている訳でもない(たまに、日記をダラダラと書いて、お金が入ってくるなら、どんなに楽しいだろう、とは考える)し、とにかく起きたこと、感じたことを、思うままに書き連ねればいいかな、って思う。だから今日は書いてみた。

朝起きて、散歩に行く。オーディオブックをイヤホンで聞いているけど、頭の中がうるさくて音声を聴けていないし、話に付いていけない。頭の中がうるさいとは言うが、「何を考えているの?」と聞かれると、覚えていない。でも、良いのか悪いのかは知らないけど、歩いていると思考があっちこっちに行く。

ちなみに散歩は、特に習慣化できていない。僕が実質一年くらいの無職・休養期間を経て、4月から障害者雇用で(僕はうつ病を持っていて、通院中だ)復職した。休んでいる間は、2、3日に一回朝か夜に散歩に行けていたんだけど、復職してから、あまり散歩ができなくなった。仕事に体力を奪われてしまい、就業開始前や後、週末に散歩に行こうと思えない(加えて、外に出ると色々なことが気になって、イライラして、自分を責めてしまうから、外出自体に対する緊張感、恐怖感、不安感が常に存在していた。だから、何をするにしても、外に出るのが億劫だった)。そんな日々が続いていた。

でも、今日は散歩に行けた。そして、「歩きたい」という内側からの動機で体が動いた。習慣化できそうな気がした。歩いているときも、心から「楽しい」と感じた。そこで不思議に思った「散歩が楽しい」と過去に感じられなかったのは、単純に今まで散歩の楽しさに出会えていなかったからだろうか、と。「散歩が楽しい」と感じられるようになった心境の変化は、何に起因するんだろうか。

時間の経過とともに、年齢を重ねることで、趣味嗜好の変化が起こる、ということはあると思う。他に明確な要因が思い付かないけど、「ただ最近、料理が楽しいと感じる。過去そう感じなかったのはなぜか分からないけど、時間が過ぎて、タイミング的なもので、変化があったのかな。年齢を重ねたからかな」という感じのタイプの変化って、あると思う。

ただ、僕の散歩に対する感じ方は、「時間の経過」という括り方で済むものでもないような気がしている。では何かというと、「楽しいものを、楽しいと感じられる体力が戻ってきた」が要因だと思っている。鬱が酷いときは、すべてが億劫で、以前は楽しいと感じられた事柄に対して、楽しいと感じられなくなっていた。そのとき、「楽しむためには、楽しむための余裕、体力が必要なんだ」と学んだ。

今散歩を楽しいと感じられるのは、「『楽しむ』『楽しいと感じている』という感覚を明瞭に感じ、意識を向けられるくらい、体力が回復した。余裕ができた」からだと思う。それがなんであれ、楽しいことを楽しむためにも体力が必要なのだ。否定的な思考で頭が一杯で「楽しい」と感じる余白が皆無だったり、楽しさを感じて行動するための体力が足りなかったりする。「楽しいから行動できる」の基盤には、「精神的な余裕、落ち着き、体力があって初めて、楽しさを感じ、楽しさを行動の動機として広い、実際に行動に移すことができる」という仕組みがあるんだと思う。

みたいなことを、散歩しながら考えていて、オーディオブックの内容は全く頭に入っていなかった。でも歩きながら、そんなことを考えながら、なぜか心が動かさせるような、路地の風景を楽しんでいた。散歩していると、本来の道から逸れる路地が目に入り、吸い込まれそうになる。路地の細さや、並んでいる住宅の古めかしさ、それらが放つ懐かしさに近いような雰囲気などに(理由もよく分からず)惹かれ、スッと路地に入ってしまう。その感覚に心がワクワクして、「これが散歩の楽しさだ」と実感した。

思い出した。過去に散歩を習慣化しようとしていたとき、動機は「痩せたい」「心の不安定さを治したい」だった。「心の憂鬱を晴らすには、散歩がいいですよ」と聞き、「心の憂鬱を晴らすためのツール」として、機械的に(億劫ながらも)散歩に出かけようとした。でも、心の憂鬱を晴れた感じもしないし、外に出ると人との接触(「話す」とかはしなくても、「歩いていて向かいから人が来る」「自転車が怖い速さで隣を通り過ぎる」なども含め)の中で心に引っかかりが生まれることもあるし、散歩が億劫になった。

散歩が何かを成し遂げるための手段で、何かを成し遂げるためにその手段を全うできる意志力が僕にはなかった。今もないと思う。でも、(と言ってもまだ習慣化できている訳ではないけど、)散歩自体が楽しくなって、散歩は手段ではなく目的となった途端に、「もっと散歩に行きたい」と思えるようになった。

手段としての散歩のときには、意識は未来にあった。「何かを成し遂げるため」という未来に意識が向いていて、心は今ここになく、気付けば色々なことが気になっていた。目的としての散歩になったとき、意識は今にあって、散歩を楽しむことに集中していて、(全てが全くきにならなくなった訳ではないけれど、)気になることが少なくなった。「散歩を楽しむ体力が回復した」とともに(またはそれによって)、「散歩を楽しむこと自体に集中する意識の向け方が可能になった」が起きた。散歩を楽しめそうだ。

日記というと、一日全体で起きたことをまんべんなく書くイメージだけど、今これまで書いたことは、全て午前中に起きたこと(というか、考えたこと)で、一日全部を書き切れそうにない。最後にもう一つだけ、起きたこととそれから発想したことについて、書いて終えたい。

「どこかの公園まで歩いて、そこで少し休みながら本を読もう」と思っていたから、本を持ち出していた。適当にフラフラと歩いていたから、今自分がどこにいるかよく分からない。スマホで近く公園を探し、そこまで歩き、ベンチに腰掛け、本を読み始めた。

読んでいたのは東洋哲学についてのエッセイで、「自分なんてものはなくて、我々は『自分』というフィクションの中で役を演じているだけだ。『自分』は認識の幻であり、自分と他に境界線はない」などと書かれていた。分かるような分からないような、モヤモヤするような心がスッと楽になるような、そんな感覚に踊らされていると、視界の隅っこで何かが蠢いていることに気付いた。

毛虫だった。毛虫が地面を這っていた。何となく、ジーッと眺めていると、また視界の隅で何かが蠢いている。また毛虫だ。そして周りを見渡すと、ベンチの近くに毛虫が10匹くらいいた。ゾクッとした。怖くなって僕の足を這っていないか確かめた後に、本に視線を戻し、毛虫をチラチラと気にしながら、本を読み進めた。

すると、毛虫に親近感に近い何かを感じている自分に気付いた。毛虫が、至るところで必死に体を動かして、どこかに進んでいる。二匹が並んで、同じ方向に向かい競争しているように見える。ある毛虫は地面の穴に頭を突っ込んで何かを探っている。のんびりと、他の毛虫から離れていく者もいる。みんな必死にぐねぐねと全身を使い、それぞれの速度で、それぞれの目的を持って、それぞれの方向に進んでいるように見えた。

必死でそれぞれの進み方を全うするその姿に、馴染み深い何かを感じ、感動していた。みんな必死に生きているし、違うペースで違う方向に進んでいても、別に構わないよね。僕は「自分という存在はこうあるべきだ」「人はこういう基準で頑張るべきだ」という像を自分に投影させ、ずっと囚われていた。その像は、「目指したい」と自分で見極めて採択した訳ではなく、人の目を、人の反応や評価を気にし続ける内に、知らず知らずの内に、僕の中に寄生した。そして、その像(基準やペース、姿勢など)の要件を自分が満たせていない時に(それは往々にして、常時だった)、自分を責め、苦しんだ。

今、うつ病の診断から4年ほど経って、ようやくその像を慎重に解体しつつある。「よく見せたい」「できると思われたい」「分かってほしい」という執着に駆られて演じていた自分を、少しずつ見直し、新しく柔らかい自分を模索し始めた。それぞれのペースで、それぞれの動機で、それぞれの力具合で、それぞれの方向に進む毛虫たちのように、僕も僕なりのペースや基準で頑張ればいいんだ。

他の人が頑張っている基準、到達している水準に無理に合わせなくてもいい。「自分はこうあるべきだ」「大人は、社会人はこうあるべきだ」は幻かもしれないんだから。毛虫のように、他の毛虫に惑わされず、僕なりの、僕にとっての特別な進み方で、人生を善く生きていきたいと思う。

↓最後に、こちらはおすすめのエッセイなどです。

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