こんにちは。一週間遅れの日記的なやつです。
カウンセリングが終わり、ポタポタと歩く。カウンセリングの内容を頭の中で振り返る。僕には衝動性があるらしい。ある夏、「あ、派手めの柄の、アロハシャツみたいなシャツ、なんかいいな」と思い立って、7着くらいオンラインで購入した。2年経った今でも、まだ袖を通していないシャツがある。
そういう、すぐ思い立って、収集欲が混じって、まとめて手に入れた完全な状態を欲して、予算などをあまり考えずにバババと購入してしまう、衝動性の癖があった。そういう衝動的な行動が積み重なり、そして僕は金銭管理ができず、借金を作って今返済中だ。
何となくそういう癖には気付いていた。けど、いくつかの具体的な行動パターン・エピソードをひっくるめてまとめて、抽象化して、改めて「衝動性があります」と言語化されると、泥に溺れていたのを引っ張り出された感覚になる。「自分の癖を対象化・客観視して意識するだけで、気をつけやすくなるなぁ」と感心していた。感心しながら、心療内科から大通りに向かってポタポタと歩く。
散歩に行こうと思ったけど、回転寿司を食べたいとも思う。大手外食チェーンの回転寿司屋に自分が入り、席につき、タッチパネルで好きな寿司を注文しているところをイメージする。新幹線みたいに、シュッと注文した寿司がやって来る。あれ、回転寿司が回転しなくなったのっていつからだっけ。
「寿司はまた今度にしよう」と思い、ちょっと歩いて帰ることにした。好きな寿司がすぐにシュッと届くのも嬉しいんだけど、自分が好きな寿司も興味のない寿司も、ゆっくり回っている情景は、結構好きだったかもな。のっぺりとレールの上で運ばれ、自分の目の前を通り過ぎる寿司を眺めて、「なかなか好みの寿司が来ないな」とか、「おお、連続して好きな寿司が来たからちょっと取りすぎた」とか、そういう思案をする時間が楽しかった覚えがある。
偶然を待ち、偶然的な出会いを享受する体験。妙に便利じゃなくて、でも非効率の中で出会った時に嬉しさがある。その嬉しさは、「好きな寿司来ないかなー」と待っている過程があったからこそ、強まる。なんか、そういう体験って、記憶や感情に残りやすいよなって思う。
そう、買い物とか散歩とかもそうかも。「ネットで探して、評価の高いお店や商品にスパンと、一直線で機械的に辿り着く」がベターな消費、ベターな体験とは限らない。偶然入った雑貨屋で見つけた鞄が愛おしくて長く使っちゃったり、ダラダラ歩いていて駅から離れた奥の路地でたまたま見つけたカフェに奇妙なノスタルジアを感じ心惹かれたり、そういう「発見までの過程」も含めて体験だったりする。「グニャグニャした、効率的ではない過程で、思いがけず巡り合う体験」って、記憶に味わい深い跡を残すよねって思う。
鬱が酷くて、嫌いな人や屈辱的な出来事ばかり思い出して、脳にこびりついて離れない。そんなとき、「いい思い出が残っていない、このまま死ぬ瞬間も、嫌いな人のことを思い浮かべて死ぬんでいくのか」と何度か絶望し、泣き崩れたことがある。
これから、いい思い出を沢山作りたい。いい思い出が残るような選択をしたいし、いい思い出が残るように、いい思いに沢山注意を向けたい。回転する回転寿司で、「なかなか好きな寿司が来ないなー」と待っているときに、今まで食べたことがない寿司がなぜか気になり取って食べて、「美味しい」とか「うーんイマイチだ」とか、そういう巡り合わせと遊んで楽しむような、なんか、そんな思い出を沢山作りたい。散歩をしながら、細い路地に吸い込まれながら、そんなことを考えていた。
(でも回転しない回転寿司には行きます。半年くらいに行けていない気がしますが、回転しなくなった回転寿司が大好きです。よろしくお願いします。)
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