心療内科の後、「出かけられそうかも」と思い駅に向かった。カウンセリングでは、僕を縛っているであろう「能力至上主義」について話した。「できる人が優れていて、できない人にはダメだ」という思考の縛りがまだ残っていて、それが原因で自分を含めて人を評価してしまう癖がより鮮明になった。「できない自分はダメだ」「『できる』と評価されない自分はダメだ」と責めて気分が沈むことがまだあるから、多少なりとも抜け出せないかというのがテーマだ。少しずつ自分を救おうと思う。
「性格的なものって変えられるのだろうか、変えられるものと変えられないものってなんだろうか」とよく分からなくなりながら、駅に向かった。目当ての街に行くことにした。一ヶ月前にもメンタルクリニックの後でその街に行こうとしたけど、「なんかしんどい……」と思い、その街に向かう路線の駅には入ったものの、結局引き換えした。二週間前も、同じくメンタルクリニックの後にその街に向かい、街には着いたものの、なぜかずっとイライラしていて写真を撮ったり店に入ったりする気が起きず、全く楽しめなかった。
そして、今日。雨が降っていたけど、体力的・気分的には大丈夫そうだ。その街の二駅前くらいで、土砂降りが始まり、「なんか、縁が無いのか……」とか考えたけど、高架下や商店街なら雨を気にせず歩けたし、良かった。適当に写真を撮った。「何撮ってんの?」と、おそらくこの街に長い間住んでいるであろう知らないおじさんに話しかけられたりもして、楽しめた。そしてようやく、前からずっと入ってみたかった、セレクションが素敵な、こぢんまりとした雰囲気の本屋に行けた。
しかし困った。素敵な本が多くて、棚を何度も行ったり来たりして、どれを選ぼうか迷ってパンクしてしまった。結局何も買えなかった。今月いつもより金銭的に制限があることもあって、過剰に迷ってしまった。「あの本はせっかくだから買っておいた方が良かったかな……」と少し悔いながら、土砂降りの中駅に向かった。
選択肢が多いと圧倒されて、結局「選ばない」という選択をすることがよくある。間違ってもいいから、何かを選択した方がいんだろうなと毎回思うが、まあ仕方がない。決めるって結構エネルギーを使うものだし、タイミングもあるから、本屋さんならまた訪れればいい。買いたい本を決めておくのもいいかもしれない。後は、その次にまた買いたくなる本との出会いを求めたり、本屋さんのキュレーションを楽しんだりすればいい。
本屋さんは、「ただ本を買いに行く場所」よりもっと大きい存在の空間だなと思った。「どの本を入荷して店頭に並べるか」という編集力というかキュレーター力というか、そういうものがそれぞれの本屋さんで発揮されていて、その本屋さんの特有の味わい、色合いがある。
この本が、こういうテーマで他の本と括られているから、こういう紹介のされ方をしているから、気になり、手に取る、という現象があると思う。もし本一冊が抱えている情報だけでそこにあったとしたら、素通りしてしまい、手に取ることもなく、「買うかどうか」「気になるかどうか」という判断にすら至らなかった本でさえ、本屋さんでは自分の認識に届く可能性がある。
本屋さんに行くと、ただ一冊がポツンと置かれていることはないから、その本という物だけで判断して「読みたいかどうか」を感じ取るのではないんだと思う。陳列という文脈の中にその一冊が存在していることで、その一冊への感じ方が形作られる。そんな体験の部分まで提供してくれているのが、本屋さんなんだなと思った。「その本屋さんにしか出せない味わい、色合い」があるから、「本屋さんに行く」というのは、「目当ての本を買いに行く」以上の体験だ。
いつもはオンラインサイトのレコメンドや、SNSでの誰かの紹介で本に出会うことが多かった。でも、「本とのトキメく偶然の出会い」は、インターネットでは味わえないのかもしれない。「目当ての本を買う」「好きな本を見つける」というタスクだけであれば、ネット上である程度は完結してしまうかもしれない。でも、「本屋さんに出向いて、棚を眺めて、偶然『自分の嗜好を鑑みると、過去に見つけていてもおかしくないのに、なぜ今まで出会わなかったんだ!!!』と思える好きな本に出会った」という、記憶に染み渡るような素朴な体験は、本屋さんに行かないと味わえないのだろう。
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