毎日、日記を書こう

日記

いつも通り七時に猫に起こされ餌をやり頭が重過ぎて二度寝する。天気がイマイチなのが気に入らない。昼前に起きて日記を書く。

日記は毎日書くものだと思った。出来事、感情、考えを毎日振り返ることで物事への洞察が深まる訳で。内省することで敏感になる。振り返るだけで成長速度がグイッとなるような気がする。

日記を書いていると出来事の陳列だけじゃなく、出来事と自分が交差したときの心象で何かしらの「人と違うところ」「自分らしさ」を表現したいが、なかなか難しい。

少し飛ばしたいのだができない。「飛ばす」というのは、安直にならず少し多くの人と違う、斜めの視点から見た感想、評論まで昇華させること。ラーメンを食べて「ラーメンを食べました。美味しかったです」で終わらせないこと。これが難しいんだな。

いっぱい本読んでいっぱい映画観ていっぱいアートに触れていっぱい音楽聴いて、考えて考えて考えて、を繰り返して、自分の文章のゴミの山から微量の「良いもの」が見つけられる訳で。人、考え方、感情、世界のパターンをたくさん組み込みたい。という訳で日記を書こう。

という訳でお昼にサラダを食べてテラスハウスを観た。一つのシーズンらしき単位を観ているが、全部で46エピソードあり、今真ん中を越えた辺りである。

人に話を聞いてほしいという欲求はどこから来るのか。客観性を得たいのか、誰かに話すことで整理したいのか、感情に共感してほしいのか、相手の好奇心を満たしてあげてるのか。

作品の中でもデート中や寝室で「どうだった?」という言葉が交わされる。自分の体験が外と触れ合うとき、自分の正常性が分かったり外と摩擦が起きたりする。話すことで「人間はこういう存在である」という問いのほんの微々たる部分の答え合わせをしているのかもしれない。

「こういう言葉、行動に触れた。こう考えてこう感じた。だからこう生きていこうと思う」という一連の生きるという流れの微調整を行うことができるのが、人と話す、言葉で外に出す、という行為の恩恵かもしれない。

まあそれは置いておいてテラスハウスで外食するときに代官山や西麻布など、小綺麗な場所ばかりなのが気になる。蒲田とか池袋西口あたりの小汚い場所で食事してるところ見てみたいのだが番組的なポリシーなのだろうか。

番組内でプロのバレエダンサーを目指している人がいて指導者に「プロになりたいなら、24時間バレエのことを考えないと」と厳しく言われていて、過酷さ、厳格さ、熱中、狂気が駆動して成功が生まれるんだろうと思った。うつ病だから無理はしないが、狂った自分は持っていたい。

テラスハウスを数話みて何か文章を書こうと思ったが、今日も書けない。もしかしたら良いものを書こうとしているのかもしれない。せめぎ合いをしていこう。つまらないものをいっぱい書くぞという気持ちと、他の書き手に負けない面白いものを書くぞという気持ちのせめぎ合い。そうやって行ったり来たりして訓練を繰り返していきたい。

と言いながら書けないので寝た。起きて蒙古タンメン中本のまぜそばカップ麺を晩ごはんに食べる。テラスハウスを見ながら「気に食わねぇな」「僕もデートしたい」と色んな感情が交差する。アイスを食べる。最近パルムを食べ過ぎているので誰か止めてほしい。猫と遊ぶ。日記を書く。SNSを見て「日本大丈夫か」と心配になる。おやすみなさい。